
この歳になると、どこかしら体の節々が言うこときかん時がある。
でも、今回のはちょっと違う感覚やった。
ただの疲れとか、冷えとか、そんなもんやない。
まるで、内側から何かが爆ぜるような──そんな痛みやったんや。
きっかけは、あの夜の静けさの中で
三日前の夜や。
仕事もひと段落して、ベッドに横になってた。
このところ気ぜわしい毎日が続いとって、心のどこかがずっとザワついとった。
ほんの少しでも静かに、自分を取り戻したかった。
軽く目ぇ閉じて、呼吸を整える。
それだけで、心がふっと緩む瞬間がある。
──そのときやった。
右膝の内側がズキンと疼いた。
それは一瞬やったけど、ただの疲労やとは思えへんかった。
なぜか直感で、「これは放っといたらあかん気がする」と感じたんや。
「ありがとう」と唱える手は、震えていた
わいはゆっくりと膝に手を当てた。
そして、声にならん小さな声でつぶやいた。
「ありがとう、ありがとう……」
ただ、そう言いながら、どこかで思てた。
ほんまに効くんよな?
今までは助けられたけど?
正直に言うて、疑いの気持ちはあった。
でも、それよりももっと強かったのは、
「この痛みには、意味がある気がする」っていう感覚やった。
体は、何かを伝えようとしてる。
それがなんなのか、わからんままでもええ。
とにかく、否定せずに受け止めてみようと思った。
さすりながら、心の奥に向けてこう重ねた。
「ごめんな、無理させとったな」
「ちゃんと気づいてなかったわ」
「ほんまにありがとう」
涙が出そうになった。
こんなに必死で、自分の体と向き合ったの、いつぶりやろう。
翌朝、歩けんほどの痛み
でも、翌朝や。
目ぇ覚めて起き上がろうとした瞬間──
「うっ」
膝に走った激痛に、思わず声が漏れた。
足を見てみると、膝から足首まで腫れとる。
立たれへん。歩けへん。
まるで、体が「ストップ」をかけてきたような感じやった。
それでも、仕事は待ってくれへん。
片足ひこずりながら、なんとか出勤したけど、歩くたびにズキンとくる。
仕事中は痛みに耐えるだけで精一杯。
夕方、なんとか家に戻ったときには、心も体もボロボロやった。
ふたたび、ただ「ありがとう」と唱えた夜
ベッドに倒れ込むように横になり、ふと手を丹田に置いた。
おへその下あたり。
昔学んだこと、「心の重心はここや」と言っていいたのを思い出した。
ゆっくりと深呼吸しながら、もう一度つぶやいた。
「わいの体、ほんまよう頑張ってくれとるな……ありがとう」
何十回も繰り返すうちに、
胸の奥でひっかかっていた何かが、ほどけていくような感覚になった。
わいはこれまで、ずっと「やらなあかんこと」に追われとった。
体の声なんて聞かずに、自分の気持ちにフタして走り続けてたんやと思う。
今さら気づいても遅いかもしれんけど、
それでも、「ありがとう」だけはちゃんと伝えたかった。
そして、膝にも両手をあてて、こう言うた。
「よう耐えてくれたな。痛みというかたちで、気づかせてくれてありがとう」
最後にもう一度、静かに。
「ほんまに、ありがとう」
数時間後、あの腫れが嘘みたいに…
深夜、ふと目が覚めて、何気なく足をさわってみた。
腫れとるはずの膝が──
スッと、引いとった。
痛みもない。立ってみても、歩いても、まるで何もなかったかのように。
理屈では説明できへん。でも、確かに「ある」
正直言うて、わいには医学的な根拠も、スピリチュアルの真実も分からない。
けどな、この体験は“事実”や。
わいにとっては、「ありがとう」という言葉が、何か大きなスイッチになったんやと思う。
それはたぶん、言葉の力というより、
心の奥から“本気で感謝できた”ことのエネルギーやったんやろな。
感謝は、行動じゃない。状態や。
「ありがとう」は、外に向けた言葉やなく、自分自身の内側を整える方法なんかもしれへん。
あなたに伝えたいこと
この話は、あくまでわいの体験や。
せやから、誰にでも同じ結果が出るとは限らへん。
けどもし、今のあなたが、どこかに痛みを抱えとるなら──
それが体でも、心でも、言葉にならん疲れでも──
「ちゃんと聴いてやってな」って、わいは言いたい。
そして、こうつぶやいてみてほしい。
「ありがとう」って。
注意と補足
- 本記事はあくまで筆者個人の体験談です。効果には個人差があり、再現性は保証されません
- 医学的な異常がある場合や痛みが長引く場合は、必ず医療機関での診断・治療を受けてください
- 感謝の言葉には、心理的な安定や自律神経を整える可能性がありますが、医学的治療の代替にはなりません
