
こんばんは。今夜も晩酌開始だ。
つまみは、毎度の「湯豆腐」。 醤油もええ。だが、ポン酢にねぎをたっぷりと入れて、熱々の豆腐をくぐらせる。 これが、たまらなくうまい。
ひと口食べたとき、ふと昔の失敗や、思い出したくもない嫌な考えが頭をよぎることがある。 人間、夜になると、どうしてこうも勝手に嫌な記憶を掘り返してしまうのだろうな。
そんな時、わたしは昔の師匠の言葉を思い出す。
かつて、わたしには師匠がいた。 気功の達人で、自称「仙人」と名乗っていた人だ。 わたしがこうして、ブログで分かったようなふりをして書いているのも、師匠や先生からの学びがあったからだ。 この長野時代の話の続きは、また後日書くことにします。
今夜は、その仙人が言っていた言葉をひとつ、思い出してみたい。
仙人人は、命をいただいて生きとるとです。
感謝するのは、うまいからではなかとです。
その一口は、命をいただくということ。
食べるとは、命の受け渡しを引き受けること。
ゆえに人は、その重みを忘れず感謝するとですよ。
「一口ごとに感謝せよ」
最初は、仙人のえらそうな言葉に聞こえた。 だが、今ならそれが間違いないことだとよく分かる。 わたしたちは、他の命をいただかなければ生きることすらできないのだ。
昔の嫌な記憶を追いかけそうになったら、手を胸に当てて、命があったものに「ありがとう」と体に感謝してみる。 今夜こうして、いただいた命を温かい湯豆腐で味わっている。そのこと自体が、ありがたい。 そうやって命の重みを感じながら目の前の豆腐をいただくと、頭の中の雑念に飲み込まれる暇などなくなるのだ。
嫌な考えに引っ張られない、心の切り替え方
頭の中の嫌な考えを追いかけないために、わたしがもうひとつ、すっかり口癖にしている小さな習慣がある。 それが「ありがとう」をただ繰り返すことだ。
これは、わたしにとって、いちばん元の自分に戻りやすい言葉だと思っている。
わたしは何十年も毎日毎日、暇さえあればこの言葉を繰り返してきた。 最初の頃は、特に変わったことは起こらなかった。わかることと言えば、少し心が落ち着くといったことくらいだった。
それから数年がたち、気がつけば意識しなくても、ありがとうを繰り返すようになっていた。 そこで当時の自分と比べてみたのだが、明らかな違いは心の豊かさにあった。 関わる人間も変わり、よくある不幸話や嫌なニュースから、自然と距離を置くようになっていた。インターネットで目に入るのも、健康や心に関係するものが大半を占めるようになった。
気になれば、本を購入して読んだ。知識というのは本当に大事だ。知らないということは、本当に恐ろしいことだと震えた。
ただ繰り返す。それだけでいい
何か大きなことが起きたわけではない。
ただ、ある日、前の自分とは少し違う場所に立っていることに気づいた。 それは、宝くじが当たったとか、ビジネスが成功したとか、そういう目に見える派手な出来事ではない。
もちろん、お金が少ないというのも問題がある。あった方がいいに決まっている。 だが、使い方が分からないと、そのあとに後悔がくる。 以前のわたしなら、見栄を張り、人を見下していただろう。だが、今は違う。 たとえ暮らし向きが変わっても、今夜の湯豆腐をうまいと思える自分ではいたい。 こう考えるようになったのも「ありがとう」のおかげだと思っている。
こればかりは、人に説明されても分かりにくい。 自分で何度か口にしてみて、少しずつ感じるものだと思う。
大きな変化を急いで期待せず、流れに身を任せる。 10年くらいたって、ようやく見えてくるものもある。その時までの歩みが、結果を見せてくれるからだ。 今、ありがとうを繰り返せば、心の向きが少し整うかもしれない。何かを変えたい夜は、まず言葉ひとつでいい。
ありがとう、ありがとう、ありがとう。
わたしはわりとこだわるほうなので、暇さえあれば、意味が分からなくても、今もただ繰り返している。 その先で、少なくともわたしは、前より嫌な考えに引っ張られにくくなった。
最初は意味が分からなくてもいい。 ただ3回、口にしてみる。
感情を込められる時は、心に刻むように言ってみる。 たまに鏡を見て、自分の表情を見て、心の向きを確かめる。
今夜の湯豆腐も、仙人が言った通り、命の重みを感じながらいただく。 そうしているうちに、嫌な記憶のほうが少し遠くなる。
今夜も、お付き合いいただき感謝します。
ありがとう、ありがとう、ありがとう。

